近藤等則

時代の先を行き過ぎた孤高の男

 ジャズ・トランペッターと認識されているが、その枠には収まらない活動と余りにも時代の先を行き過ぎたスタイルは、昔のアルバムを聴いても古臭さが無く、むしろ時代がやっと追いついてきた感じさえする。ジャンルやスタイルに拘らず、格好良いと思ったものを何でも取り入れていく姿勢は、マイルス・デイビスと通じるものがある。しかし、決してマイルス・デイビスの亜流になっていないのは、プレイ・スタイルの相違だけではないと思う。

 京大卒業後、'72年に上京。20代を30代からの人生のためにと決め、東京都町田市にある和光大学のグラウンドの隅でトランペットの練習と体力作りに勤しむ。'75年頃からセッション活動に勤しむが、'78年、日本では食っていけず、ライヴの帰りに電話で夫人に新宿駅に来るように伝え、その日のギャラと有り金全部を持って渡米する。この海外での活動に関して詳しくは分からないのだが、'79年にリリースされたギタリストのEugene Chadbourneと共演しているライヴ・アルバム「Possibilities Of The Color Plastic」を聴く限り、主にフリー・ジャズを演奏していたようだ。このアルバムは、アメリカのみでリリースされた自主制作盤と思われる。その後、欧米各国を渡り歩き帰国する。

近藤等則 帰国した近藤はロドニー・ドラマー(Bs)、セシル・モンロー(Ds)、豊住芳三郎(Per)、渡辺香津美(Gt)らとチベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンドを結成。'83年「空中浮遊」をリリースする。チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンドを発展させ、更に実験的な音になるインターナショナル・ミュージック・アクティヴィティズ(IMA)を結成し、ゲストにフリクションのレック(後にIMAに参加)やビル・ラズウェル、仙波清彦を向かい入れ、'84年「大変」をリリースする。このアルバムではギターが渡辺香津美から寺前義則、酒井泰三に変わっている。'85年には後の方向性を決定付け、富樫春生(Key) 山木秀夫(Ds)が参加をし、レックが正式に加入をした「Metal Position」をリリース。このアルバムはドイツでもリリースされた。'86年、ロドニー・ドラマー(Bs)が脱退したためにレックがベースを弾いている、ビル・ラズウェル・プロデュースの「KONTON」と12インチ・シングル「Sundown」をリリースする。この年の5月から約1ヶ月に渡るヨーロッパ・ツアーを行う。また、ライヴでは酒井泰三とレックが曲によってお互いにギターとベースをスイッチしていた。'87年、実際は近藤等則・IMAの演奏だが、何故かソロ名義で「337」をリリース。このアルバムは、A面がCMソング、B面が映画「郷愁」のサウンドトラックを収録している。またこのアルバムには、ゲストで山内テツ(Bs)が参加をし、一時的だがIMAに加入もしている。'88年、そこそこヒットをした「Tokyo Girl」を収録している「Human Market」をリリース。この頃、日本のレコーディング・スタジオの機材や世界一高い料金などへの疑問から、自前のレコーディング・スタジオ「メタル・ボックス・スタジオ」を設立している。 '89年、環太平洋ライヴを収録した初のライヴ・アルバム「Kamikaze Blow」とジミ・ヘンドリクスの「Purple Haze」のカヴァーを収録した「Tokyo Rose」をリリース。日本での活動の頂点を迎える。この頃から少し大きめの会場でのライヴには今ほど脚光を浴びていなかったDJが参加していた。

 '91年「Brain War」をリリース。 '93年2月にはバックの音を全て打ち込み、ほぼ1人で作り上げたソロ・アルバム「Touch Stone」をリリース。このアルバムで近藤は、音は空気の振動がなければパワーが出ないとして、シンセサイザーの音を全てスピーカーから流し、それをマイクで拾って録音している。この頃からソロ活動が目立つようになる。10月に「Red City Smoke」をリリースし、その攻撃的な音とジャンルに囚われない実験的なスタイルを貫きながら近藤等則・IMAは活動を休止する。活動休止後、近藤は、現在の日本のミュージック・シーン全体に対し、数多くの疑問を持ち続けたまま、オランダのアムステルダムに新たな活動の拠点を置く。日本は近藤に見限られたと言っても良いのかもしれない。'94年、当時はまだコアなファンにだけ支持をされていたエレファント・カシマシの「東京の空」に1曲だけ参加。 '96年、DJクラッシュとの共演「記憶」と「神戸地震で亡くなった6000余名の魂にこの音楽を捧げる」と記され、収益を自ら被災者へ届けると宣言をしたソロ・アルバム「KOBE 17.01.95」をリリース。'97年には「神曲」 をリリースしている。

 音楽以外にもCM出演から'80年代後半にテレビ朝日で放送されていた深夜番組「プレ・ステージ」の司会を勤めたり、映画「てなもんやコネクション」に出演したり、エッセイ集を出版したりと、幅広い活動していた。

 トランペットの生音だけでも物凄いテンションであるにも関わらず、自らが奏でる音を素材として、機材で音を加工し、トランペットの音とは思えない音を出している。以前、ライヴを見た時に使っている機材の殆どがギター用の物で、これがトランペットの機材かと驚いたことがある。過去の遺産を食いつぶすより、現在を生きることを選んだ日本のミュージック・シーンには数少ないプロフェッショナルと言っても過言ではないだろう。

 もしかしたら、今のままでは何十年かかっても日本に近藤等則を受け入れる土壌は出来ないのかも知れない。

 昔、雑誌のインタビューで最後にアマチュアに一言といわれた近藤は「音楽はアマチュアで続けるほど甘くはねぇ」と語り、当時10代だった私は、この言葉で思いっ切り道を踏み外しました。

 

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