ウルリッヒ・ロート

ヘンドリクスになりたかったドイツ人

 ジミ・ヘンドリクスは無数のミュージシャンに影響を与えている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンはヘンドリクスの影響をスマートに表現し、ランディ・ハンセンは曲、ギター、果ては彼女までヘンドリクスの遺産を喰い潰していた。このドイツ人はヘンドリクス原理主義と言っても差し支えのないくらい影響を丸出しにしているのにクラッシック的要素もある希有な存在だ。

 で、このヘンドリクス原理主義者のキャリアは、今では帽子を取らない集団と化してきたスコーピオンズに加入したことから始まる。スコーピオンズは'71年にデビューをしたもののパッとしないまま、UFOにリード・ギタリストのマイケル・シェンカーを引き抜かれ、’75年にヴォーカルのクラウス・マイネとリズム・ギターのルドルフ・シェンカー以外のメンバーを入れ替えて「Fly To The Rainbow」で再デビューをする。この時にウルリッヒと同時に加入したメンバーはフランシス・ブッフホルツ(Bs)、ヨルゲン・ローゼンタール(Ds)の2人。'76年、いきなりドラムをルディ・レナーズに変えて「In Trance」をリリース。'77年に今では立派な少女ポルノがジャケットの「Virgin Killer」をリリース。このアルバムから脱退するまでの3枚のアルバムはジャケットの問題で欧米では発禁処分となり、ジャケット写真を差し替えてリリースしている。ドラムにハーマン・ラレベルに向かい入れ、'78年「Taken By Force」をリリースする。この年初来日を果たし、事前に日本のファンクラブが送った日本を代表する曲を数曲収めたテープから「荒城の月」(そう、あの滝廉太郎のだよ)を選び演奏している。日本公演を最後にウルリッヒはスコーピオンズから脱退する。 脱退後、中野サンプラザで行われたライヴを収録をした「Tokyo Tapes」がリリースされる。当初、このアルバムは日本のみで発売された。

Ulrich Roth 名前をウリ・ジョン・ロートと改名して、ベースにウレ・リトゲン、ドラムにクライヴ・エドワーズを起用し、エレクトリック・サンを結成。'79年に「Earthquake」をリリースする。本人的には3人編成で、スコーピオンズ時代にも曲によってはリード・ヴォーカルを担当していたが、今回は完全にリード・ヴォーカルも担当し、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスばりに決めたつもりのようだが、悲しいかなへっぽこな歌は如何ともし難い。ドラムをSidhatta Gautama(読めねえよ、こいつの名前)に変えて、'81年「Fire Wind」をリリース。このアルバムからウリ・ジョン・ロート・エレクトリック・サン名義になる。'85年、またしてもドラムをクライヴ・バンキーに変え、ストリングスやヴォーカル・ハーモニーを取り入れた「Beyond The Astral Skies」をリリース。この頃、日本ではウリ・ロートと非常に間抜けな名前で表記されていた。

 気が付くとウルリッヒは第1線から退き、地元ドイツでテレビ番組などの音楽制作をしたり、'91年のジミ・ヘンドリックス・コンサートや'93年のシンフォニック・ロック・フォー・ヨーロッパ等のイベントに参加をしたりしていたが、余り表立った活動はしていない。

 '94年位からバンドではなくプロジェクトという形でスカイ・オブ・アバロンをスタート。'96年に壮大な5部作の序章となる「The Symphonic Legends」をリリースして復活。と、成る筈だったんだけど、その後アルバムをリリースしていない。'98年にギター和尚ことデイブ・スペクター似のジョー・サトリアーニが企画したライヴ「G3」のヨーロッパ版にマイケル・シェンカーと共に参加をしているが、これ以降これといった話題を聞かない。

 ヘンドリクスが好きで好きでたまらなくてしょうがないのがよく分かるプレイは、何気なく聴いていると簡単にコピー出来てしまいそうだが、物凄くテクニカルなフレーズが多く、ただ早弾きが出来る程度ではコピーしきれない。また、ヘンドリクス以外の黒人ミュージシャンの影響はビタ一文感じられず、ルーツの1つでもあるクラッシック的なボイッシングや時折聴かせる計算尽くされた印象のハーモニーなどは、ある程度の音楽的教養を持っていないと出てこないものだろう。ギターでバイオリンの様な高音を出したくて、普通のギターには出せない高音部分を出せるようにして、最近は7弦にまでした、本人曰く美しい、客観的には炉端焼きの巨大しゃもじにツノが生えた様な形のカスタム・メイドのギター(スカイ・ギタ−と命名)を愛用している。

 アーティスティックで完璧主義なのは分かるけど、いい加減、新作を出して貰いたいものだ。いったい何をしているんだろ?

 

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